努力できるのは才能

「努力すれば報われる」
というけれど、「努力できれば」という条件が人類が普遍的に持っているものだとしてるなら、嘘だ。

努力は誰でもできるものじゃない。
ここでいう努力というのは、朝ちょっとグレードの高いご飯を食べるためにちょっと時間をかけていつもの目玉焼きにベーコンを焼いてみるとか、人見知りだけどちょっと頑張って初対面の人にあいさつしてみたとか、そういう日常的なことではなくて。

一日10時間机に座ってひたすら勉強できる、という努力だったら、その段階で9割以上の人が無理だし。
この手の努力というのは先鋭化された意志や、精製された意識や、高いモチベーションを持っていないとむずかしい。

「努力できる」のは立派な才能だと思う。

というのは、うちの旦那を見ていてそう思うから。
旦那はいちおう「士」業だけど、まさに努力の人だった。

自分の目的に向かって純度の高い労力・時間・思考を捧げることができる。
それは配偶者ながら、尊敬している。

問題は、「努力できる」という才能が誰にでも与えられた標準スペックだと思っている挫折を知らないエリートが
そこを基点に自論を語り出しちゃったときなんではないだろうか。