意味や価値判断を超えたもの Ⅰ

日々、自分が意味とか、価値判断にがんじがらめになっている気がして、しんどいな、と思うことがある。
人間は言葉を持つ動物で、言葉を持つと、言葉には「意味」や「価値判断」が付随してくる。


例えば、「森」という言葉を聞いたとき。
まず現実として森という言葉が指すのは、場所としては常緑樹や針葉樹、もっと背丈の低い雑木や、地面には雑草が生い茂った、それらのものが混然一体となった場所。だ。
林とは違う。林のほうがより人工的な、人の手が入った自然環境を指す。
・・・と、こんな具合に。これが言葉の意味。


価値判断というと、「森」という語に「暗い」をつけて「暗い森」。
「暗い森」とくると、しぃん、と暗い物静かなイメージ。小説だとノルウェーの森のうっとおしい青春のイメージとか、アニメの日本昔話のおとぎ調の不気味な森なんかを連想する。
いずれにしても、暗い森にあまり良いイメージは持たない。
「安易に足を踏み入れてはいけない場所」
「人が人でなくなる場所」
こういうのが、価値判断。
生きていく中で、言葉に対して植えつけられたイメージ。


つまり価値判断とは「悪と善」「聖と邪」「良いと悪い」とか、人に価値の判断をせまるもの。


生きていく中で、言葉に対してこういった「意味」や「価値判断」があるから人は人とのコミュニケーションをとれるのだけれども、逆に意味や価値判断が固定されてしまうがゆえに分かり合えないこともある。


価値判断といえば、ある言葉を人にかけられたとき、例えば
「あなたは優しい」と言われたとする。
個人の価値判断も異なるので、優しい、が好ましい意味として響く人もいれば、優しいとは弱さの象徴であって、好ましくない意味を喚起される人もいる。


言葉自体が持ってしまう意味の領域への指標性みたいなもの。
人それぞれ違ったりもする、それらのもの。
そんなものから人は自由になれないのかなあ、と考えたりする。


意味も価値判断も持たない言葉ってあるのだろうかって(何を昼間っから考えているんだろう・・・)考えても、ありそうもなく、でも、もしそんな言葉があったら、そんな言葉で意味も価値判断も強いらない文書をつづってみたいものだと思う。

放射線廃棄物問題



このニュースを昨夜見まして、正直、震災以来一番真剣に考え込んでしまいました。
人間が浴びれば20秒で死に至る濃度の放射線廃棄物質を、東北の農村の地下300メートルのシェルター様の建物の中に保管しているということです。
そして、これらの廃棄物質が放射線放出を安全とされる範囲に下げるまでに10万年かかるというのです。


10万年の間、人間が管理し続けられるでしょうか?
普通に考えれば人間という種がこの地球上からいなくなる方が早いでしょう。
この廃棄物質は今回の福島原発の事故で大幅に増え、数千本から数万本に膨れ上がるそうです。


しかも、今の保管場所は「一時的なもの」。
人間はとんでもない負の遺産を地球と地球上の生命に残してしまいました。
今回の地震でもわかるように、地殻は常に変動しており、日本は水の国で豊富な地下水があります。
いつ地下水に放射線廃棄物が流れ出すか、わかったもんじゃないのです。


この原子力問題を考えるときに価値観の差っていうのは大きくてですね。
私と旦那もこの問題について話合ったんですが、やっぱ価値観が違うので、平行線ですね〜。
旦那は原発肯定派でして、言い分は

今はこの問題の過渡期である。いずれ、核融合ができるようになれば発電はそちらに移行するから、解決される。
人間の技術は日進月歩で進み、いずれこの放射線廃棄物問題も良い解決策が見つかるだろう。

旦那の人間観、文明観は

文明は進むほど良くなる。人間は良い方向へ、さらに賢くなれる。地球と折り合いがつくところにいずれ落ち着く。

まあ、文明楽観主義といいますか、あまり考え込まず、すっきりしています。
私はどちらかというと文明悲観論的なところもありますかね。


文明楽観主義は基本的に人間の力を信じているとも言え、確かに頼もしい考えですが、これも人間が内省的になって軌道修正を器用にできれば、の話ですね。
軌道修正が原発廃止なのかはわかりませんが、このニュースを見た限りでは原発を手放しで肯定することはできません。
原発には大きな利権がからんでいるので、地球に悪いから廃止だ、と一筋縄でいかないのはわかりますが。


さきの鉢呂さんの辞任騒動にしても、「死の街」発言くらいで辞任など茶番もいいところです。
本当の原因は鉢呂さんが原発廃止派(原発ゼロ発言)だったからではないでしょうか?
政治家の言動のリークの仕方に関してはマスコミは不公平なので、ワイドショー的な感覚で表面に踊らされないことです。

はてなとアメーバ

それはともかく、はてなのページビューカウンターって回りすぎじゃないですか?
アメーバでもこんなに回らなかったけどなあ。
(あそこはそもそもカウンター機能はついてないですけど)
回りすぎてにわかに信じられないが、キーワード検索機能の効果か、はてなブログのファンが多いのか。
実際は5分の1くらいに見積もった方がいいのではないかと思うほど。


はてなのユーザーが100万で、アメーバは1300万ですっけ?
アメーバは芸能人をざくざく呼んでブログ開設させてますけどね。
前も書いたけど、巨大な客寄せパンダ空間ですから。


ブログも、読み応えがあるというものよりも、(前も書いたが)文学でいえばあそこはライトノベルなんで、
いかにライトに読み流せて、しかし言葉は限りなくキャッチーに、人を惹きつけるのがコツ、って感じです。
私は1年経ってもほとんど読みたいブログがなくて、正直。げーのーじんなんて当たりさわりのない棒にも
箸にもかからないことしかネット上の日記になんか書かないですからね。
ライトノベルでは物足りなくなりまして、他のブログへの移設を考え始めたんですが。


場所か人か、と言いますが、場所の力、ってやっぱりあるんですよ。
そんで、来るべき場所に来るべき人が集まったりとか、あるんじゃないですか。


アメーバは商業目的でひやかしに読者申請してくる人も多くて、閉口しました。
ブロガー本位にできているのは、間違いなくはてなです。
とはいえ、それもブロガーがブログに何を求めるかの価値観によるのでしょうから、誰かブログごとに
どんな特性をもったユーザーが集まりやすいのか、統計とか出してくれないでしょうか。
面白いと思いますけど。

主婦もしてます

アメーバにいたとき、デジカメで撮ったカメラがそのままブログにアップできず面倒くさかったことを思い出す。
デジカメの画像だと画素数が大きすぎて、一度専用のソフトを使って画素数を変換(画素を縮小する)しないと
ブログに貼り付かなかったの。
はてなは変換いらないし、そのままアップできるんですね。


ブロガー本位にできてるのは間違いなくはてなだと思います。
アメーバって全体が巨大な客寄せパンダのようなネット空間だと思ってました。

見た目悪いんですが、オリジナルの和風カレー。
和風の煮物にしようとして取っておいだ材料をそのままカレーにしたら、成功した!
具材はこんにゃく、大根、人参、牛バラ、ねぎです。
作り方は普通のカレー同様に、でもきざんだショウガとニンニクを野菜を炒めるまえのフライパンで油で香りが出る
までじっくり炒めるのがコツ。隠し味は味噌としょう油
旦那が美味しいと喜んでくれたので、うん成功でしょう。

娘っちの一時保育のお弁当も、時間があるときはできるだけ手をいれます。
子供ってお弁当の彩りで食欲もぜんぜんちがってくるので。


私は、この世界で名づけられたどんな役割よりも、「母親」になれたのがうれしかった。
今まで娘であったり、恋人であったり、妻であったり、先輩であったり、後輩であったり・・・etc、
生きていく中でいろんな立場を経験してきたんだけど、母親になれたのが一番しあわせです。

ブログを書くにあたって

今回、はてなでこうしてブログを始めたわけだけれども、はてなではぜひつらぬきたいことがある。
それは


○自分がブログ上で求められているキャラを勝手に想定して、それに縛られないこと。
 何かを演じなければと思わないこと。


今までいくつかやってきたブログは、読んでくれている人に対して自分が何を書くべきか(期待されているか)と考えていた気がする。
程度問題で、そんなの多かれ少なかれ誰でも他人の中で生きていく以上やってることなのかもしれないけれど、
負担になるなら、なんの意味もなく。


○自分が今語りたいこと、面白いこと、興味があること、自分本位で、書く。


私は女なのに理屈っぽいし、文章までかわいげないけども、そこで感情と感覚のままに書きつづれと言われても
ムリなわけで、「女の子」らしい、ピンクちっくなブログなんて無理なわけで、ごたごたと道理を通したいあなたは通すしかないべさ。
なるようにしかならず、あなたはあなたのようにしか、ならない。


自分が書きたいことを、真摯に。

動的平衡とか、いろいろ

スティーブ・ジョブズの名スピーチ
http://d.hatena.ne.jp/komoko-i/20111006/p1


アップル社の創設社がスタンフォード大学でしたスピーチの内容。


やぱり醉も甘いもかみ分けた人の言葉は違うね。
印象に残ったのは、「点と点をつなぐ」生き方をする、とかいうところ。
はずかしいことに、私の今までの生き方はその時点時点で未来につながるかもしれない「点」を保存(せめて保留)するよりは、自ら塗りつぶしてしまった点も多いかもしれず。価値判断という名の抹消。短絡的な価値判断は悪ですね、まったく。
過去や現在の点と点がつながって、一つの人生という時間軸で見たときに線でつながり、人生という絵画を描き出す。
・・・のに、私の人生ときたら点描画になりかねない、と少し思った(笑)。
点描画は点描画で、味があっていいのですが!
線でつなげるように、未来に託せるおおらかさを身につけよう。うむ。
自分でその時点時点の「点」を取捨選択できる価値判断があるという傲慢さを慎みたい、ということ。


あと、最近分子生物学者の福岡伸一さんが出ている番組を見て、彼のたどりついた「動的平衡」という考え方について語っていて。
とあるマウスを使った実験で、マウスにとってそれがなければ重大な病気にかかる、という細胞を取り除いたのに、マウスは元気に生き続けたそうだ。
その時、「生物は損失(ロスを)補完する力を持っている」と思ったそうで、それが「動的平衡」という新しい生物学的な考えだそうだ。


このスティーブ・ジョブズさんのスピーチにも「ラブとロス」というカテゴリがあるけれども、多くの成功者の経験を聞くと失ってから大きく飛躍できた経験というのはたくさんあるわけで、先の動的平衡のマウスの実験とも関係するのだけれど、「失う」ってなんなのだろう?
私が若いころ、失うということは明らかな損失としてしかとらえられなかった。
ロスはマイナスでしかない、人生の汚点でしかない、と。
しかし、人生という大きなスパンで見たとき、ロスは本当に悪なのか?


先の「生物は損失を補完する力を持っている」という福岡伸一さんの言葉にしろ、私たちは大きな、大きな空虚を抱えたときほど底力を発揮できる
ようにできているのかもしれない。
動的に平衡をとろうとする、内にひそんだエネルギーだ。
それが働くとき、もはやロスは損失ではなくて、次なる段階の提示でしかなかったということなんだろう。

風邪と形而上のあいだ

ここ数日風邪を引いている。
私は風邪を引くときに前兆があって、それは突然やたらと形而上的なことを考え出して悲観的になってくるのだ。


普段の自分ならこんなことを考えない、おかしい、と客観視している自分がいる。
え?なんでこう考えるか?現実と現実認識ズレてるでしょ?と自分で突っ込む。
アンダーワールドに足を突っ込んでしまった、このまま廃人にでもなるのか??と危惧しているとその数日後に風邪の症状が出る。症状が出たとたんにいつもの自分に戻る。
これを繰り返して、
「あ、これは私の風邪を引くときのパターンなんだな」と気づいたのです。


そんな前駆症状なしにいきなり風邪を引くこともあるけど、やたら思考が形而上的になってくるとその数日後に体調崩すのはほぼ確実。
というわけで、私は「形而上的な悩み」なんてものはあまり信じていない。(「形而上的な問い」とは別ですよね。)


人の気分・・・悲観的、楽観的、とかって脳の物質が少し変化しただけで簡単に操作できるんですから。
真に切り離された「形而上的な悩み」などあるんですかね??現実的な、人間臭い悩みから派生したものでしか、人間なんて悩めないんじゃないですかね。


タイプとして、体内の科学物質変化がわりとダイレクトに気分に反映されてしまう人間はいるんじゃないでしょうか。
そういう人間を繊細と呼ぶのか、わかりませんが・・・。